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現在、世界160数カ国、約5000万人の愛好者がいるといわれる空手。


空手のルーツは沖縄古来の武術、「手(ティー)」と中国伝来の「拳法」が融合して発展したものだと言われている。

琉球王朝は、海洋国家として栄え、その地理的な優位性を活かし、日本、そして中国との間で海外交易を行なってきた。

 

そうした中、15世紀から16世紀にかけて近海に倭寇(わこう)と呼ばれる海賊が盛んに出没し、貿易船や海辺の村を襲うという事態が頻繁に起こるようになった。

 

それに対抗するため、人々は武器を携帯し護身術を身につけるようになった。かくして、ここに沖縄独自の護身術が誕生したのだ。

 

その護身術を生み出すにあたり、人々は沖縄固有の武術「ティー」に、中国や東南アジア諸国、朝鮮、更に日本の武術の要素を取り入れて、空手と古武道を体系化していった。

 

発達を遂げた空手は、首里城を中心に発達した「首里手」(しゅりて)、商業都市の那覇を中心とした「那覇手」(なはて)、その中間にあった泊村(とまりむら)一帯で生まれた「泊手」(とまりて)がそれぞれの地域で栄え、著名な武人を多数排出していった。

 

Iその後、15世紀に尚真王(しょうしんおう)が行なった刀狩りの実施。また、1609年、薩摩の琉球侵攻後の禁武政策(きんぶせいさく)により、武器の携帯が禁じられた。武人達は、身近な生活用具、農作や魚業で使う道具等に工夫を重ね、それらを武器として転用しながら、沖縄独自の古武道を密かに発展させていった。

 

一方、禁武政策等の影響は空手の世界にも及んだ。弾圧を恐れた武人達は、以後、空手を門外不出の秘術としたのである。

 

以後、約250年にわたり、秘密裏に伝承されてきた空手、そして、古武道が世に明らかにされ、近代空手として体系化されたのは、明治維新を経てからである。

 

それに大きく貢献したのが、中興の祖と呼ばれる首里手の松村宗棍(まつむらそうこん)、泊手の松茂良興作(まつもらこうさく)、そして那覇手の東恩納寛量(ひがおんなかんりょう)である。

 

さらに、明治後期の1908年、糸州安恒(いとすあんこう)によって「唐手十か条」がまとめられたのをきっかけに、学校の体育にも取り入れられ、空手は門外不出の秘術という秘密主義の立場から脱却することとなった。

 

1900年代に入ると、松涛館流(しょうとうかんりゅう)開祖の冨名腰義珍(ふなこしぎちん)、糸東流(しとうりゅう)開祖・摩文仁賢和(まぶにけんわ)、上地流(うえちりゅう)開祖・上地完文(うえちかんぶん)、剛柔流開祖・宮城長順(みやぎちょうじゅん)らによって、日本全国に空手が紹介されるようになった。


また、沖縄においても、喜屋武朝徳(きゃんちょうとく)、本部朝基(もとぶちょうき)、そして小林流(しょうりんりゅう)開祖の知花朝信(ちばなちょうしん)らによって空手は広まって行った。

 

太平洋戦争後、沖縄の空手界は、小林流、剛柔流(ごうじゅうりゅう)、上地流、松林流(しょうりんりゅう)らの流派が活動を開始。中部では小林流(うえちりゅう)、一心流(いっしんりゅう)が普及活動を展開するようになった。

 

その後、1969年、第一回全日本空手道選手権大会が開催され、1994年のアジア大会では正式種目として採用される等、沖縄が生んだ空手、そして古武道は世界のスポーツとして、益々の発展をみせている。

 

DVD本編「空手の流派」へと続く)

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